こんにちは、サイオステクノロジーの馬場です。
この記事は、私の考えを綴る、いわばエッセイです。もし、よろしければ、おつきあいください。
私は最近、「デザイン」の前段階・準備を「見立て(みたて)」と呼び始めました。
私のいう「見立て」は、「デザイン」の基盤となるアイディア、設計のタネ、を見出すプロセスです。
ちょっと何言ってるか分からない、ですね。
おまえがいう「見立て」とは何か
「見立て」を Google 翻訳してみると、 “likening” だそうです。「なぞらえること」。
「見立て」と呼び始める前は、
「アセスメント」「モデリング」「プランニング」等々と呼んでいたかもしれません。
「コンセプト」「ラフスケッチ」と呼んでいたかも。これは「見立て」という行為の成果物ですね。
「見立て」は Why, What.
「デザイン」は How.
医者が初診で行うこと、建築士が図面を引き始める前にすること、に似ているかもしれません。
問題を、多角的に評価した上で、適切に抽象化することで、見通し・着想を得る。
「見立て」を経て、はじめて、解決のための指針や計画を立てられるようになります。
「見立て」なくして「デザイン」なし。
「見立て」なくして「デザイン」なし。 ( No “Mitate”, No Design. )
私が言いたいことは、これです。
極端な例として、
解決したい問題が、世界に類のない、完全に新しい問題だったとしたら、どうでしょう?
(例えば「月面にテーマパークを建てたい」)
このような問題に立ち向かうには、「見立て」が不可欠だろう、と私は感じます。
では、逆の極端、つまり、ありふれた問題なら、どうでしょう?
(例えば「庭に柵を立てたい」)
この場合、「見立て」の必要性が感じられないかもしれませんが、
柵を選ぶという行為を通じて、結局「見立て」をすることになるでしょう。
さて、現実の問題は、2つ極端の間のどこかにあり、
「見立て」の必要性が、ハッキリと感じられない場合も多いでしょう。
それでも、「見立て」を経ることで、
その問題に対する「あなた」の interest ( 関心, 利害関係 ) も見え始めます。
その問題に「あなた」が取り組むモチベーションが生まれる (かもしれない) 瞬間です。
「見立て」を経てなお、モチベーションを感じない問題に「あなた」が取り組む道理はありません。
「デザイン」がうまくいかないと感じる時は、「見立て」に立ち戻ると良いかもしれません。
おわり